Valley Arts 【OO-245】

アコースティックギター

Vally Artsはエレキで有名ですが、非常にクオリティーの高いアコースティック・ギター製作しています。

Valley Artsの歴史

Valley Artsは、伝説的なカスタムギター・メーカーであり、かつてはラリー・カールトン(Larry Carlton)、リー・リトナー(Lee Ritenour)、トミー・テデスコ(Tommy Tedesco)など、ロサンゼルスのギタリストの誰もが顧客リストに名を連ねていた『プロショップ』と呼ばれるギターショップです。

Valley Artsは、ギター教師のデューク・ミラー(Duke Miller)が経営する楽器店が前身です。デュークは、マクガイアやカーネスなどを教えていました。

マクガイア曰く

「デュークは先生というよりも師匠のような存在で、私の成長を助けてくれました。彼は、カリフォルニア州パコイマにあるミュージック・ワールドという店で、私に最初の音楽教師の仕事を斡旋してくれました。当時私は15歳でしたが、やがて私はデュークのもとで教えるようになり、そして彼の店で働くようになりました。その頃、私たちはノース・ハリウッドに『Duke Miller’s Guitar Center』という小さな店を始めました。」

1960年代後半、アメリカ海軍に入隊したマクガイアは、兵役中にミラーから「ビジネスをやらないか」と誘われました。マクガイアはそれを受け入れました。その頃アル・カーネスは学校に通いながら、「サーファリス」(『ワイプ・アウト』でおなじみ)というバンドでギターを弾いていました。

サーファリスのエージェントが日常的にバンドをダブルブッキングして、実際にはサーファリスではなかったが、カーネスのグループを『なりすまし』として送り出していました。

1969年頃、カーネスはマクガイアとミラーと一緒に店の提携をしていたが、1971年になると、ミラーが本格的に動き出しました。

マクガイア曰く

「デュークは真の教育者でした。彼は本を書きたいと思っていて、南カリフォルニア大学でジャズ・ミュージック・ディレクターとして教鞭をとることになった時に彼のビジネスをアルと私に売却したのです。そして約1年後、Duke Miller Guitar CenterからValley Artsに名前を変更しました。」

「とても小さな楽器店だった。」とカーネスは振り返ります。「教えることが中心で、修理もしていました。マイクは修理の方に、私はビジネスの方に惹かれました。すべては常にプレーヤーとサービスに焦点を当てていました。」

特にこのダブルオー・タイプは小ぶりながらも非常に鳴り、とても弾きやすいです。

1973年頃、ローレル・キャニオン・ブルバードにあった教室をベンチュラ・ブルバードに移転しました。当初は教育に力を入れていましたが、最終的には12人のフルタイムの教師を抱えるまでになりました。そしてマクガイアは、ギターの修理方法も学び始めました。

「世界一の修理屋のジャック・ウィロックという人のところに通うようになりました。毎朝行っては、いろいろ教えてもらいました。彼の店を掃除すると、いろいろなものを見せてくれたり、作業をさせてくれたりしました。その後、Valley Artsに戻って、アルと一緒に店を営業しました。そうやって数年間、ショップで修理をしながら過ごし、多くの事を学んでいきました。」

そして「修理や改造の評判も良くなってきた」とマクガイアは言います。「大きな転機となったのは、ラリー・カールトンが店に入ってきたときだと思います。彼が古いギブソンのSGを持ってきたのを覚えています。私はこれは彼のメイン楽器では無い事は分かっていました。彼がどの楽器をメインを弾いているかはみんな知っていましたし、あれは一種のテストだったんだと思います。彼はリフレットしてもらいたいと言って、スツールに座って待っていました。それは恐ろしい時間でしたね。」

「ラリーは、良いギター技術者やリペアマンに本当に必要なものを理解させてくれました。彼はそのギターがショップにある間はそれでお金を稼いでいないと説明してくれました。迅速に正確に作業する事を求められました。そのために、私は細部にまで気を配るようになったのだと思います。ラリーは私には聞こえない音が聞こえ、いろいろと指摘されました。」

「ラリーが来たことで、噂はあっという間に広まり、事態は急展開しました。毎週土曜日になると、店の上にある修理工場に人々が集まってきてピザを食べるのが、土曜日の恒例行事のようになっていました。」

細部の作り込みもとても丁寧で、強いこだわりが感じられます。

Vally Artsの顧客には、トミー・テデスコ(Tommy Tedesco)、スティーブ・ルカサー(Steve Lukather)、ロベン・フォード(Robben Ford)、ミッチ・ホルダー(Mitch Holder)、マンデル・ロウ(Mundell Lowe)、アル・ヴィオラ(Al Viola)、そしてマクガイアが影響を受けた人物の一人であるデュアン・エディ(Duane Eddy)などが名を連ねるようになりました。

デューク・ミラーの教え子でもあるリー・リトナー(Lee Ritenour)も、Vally Artsによく来ていたが、彼は紙袋のリーダーという栄誉を得ていました。この店の紙袋には楽譜が印刷されていて、それを初見で演奏できた人には無料で弦楽器のセットを提供するという事になっていましたが、リーはそれを完璧に初見で演奏してしまいました。怪物の一人であったテデスコさえも完璧にはできなかったが、リトナーにはそれができました。私はその場にいたので、昨日のことのように鮮明に覚えています。」

現在、自身のギブソン・カスタムショップモデルを持っているリトナーも、アル・カーネスともValley Artsの思い出を残しています。

彼は言います。

「お店でちょっとした集まりがあって、リーと私が一緒に演奏したんですよ。私は『Shadow of Your Smile』のコード・メロディー・バージョンを学んでいました。私はLeeに感銘を与えることができると思っていましたが、彼は私を圧倒しました。」

1977年頃、マクガイアは最初のギターを一から作りました。フェンダーのストラトキャスターに似ていましたが、キルテッド・メイプルのボディとバーズアイ・エボニー・フィンガーボードが採用されていました。彼はラリー・カールトンが最終的にそれを使ったと思っています。1983年には、Valley Artsのギターの需要が高まり、マクガイアはVose St.(ノースハリウッドのSherman Wayの南側)に別の製造工場を開設し、最終的には35人の従業員を雇用するまでになりました。

「本当にたくさんのことを開発する事ができました。ラリー・カールトンのギターにはクイック・ディスコネクトが付いていて、いろいろなものを入れたり出したりしてすべてのピックアップを試すことができました。その結果、スティーブ・ルカサー・モデルとラリー・カールトン・モデルが完成しました。Custom Proモデルは、最高級品で自分の好きなように作ることができました。そして私たちはCalifornia Proを発売しました。これらはフルサイズのストラットで、色あせたコーラルやレモンイエローなどのパステルカラーが主流でした。でも、もっと安価なものが欲しいという声があったので、最終的にスタンダード・プロを発売しました。また、トップに彫刻を施し、ヘリンボーン・バインディングを施したテレキャスターのバージョンも作りました。これは、私の息子のミッキーにちなんで『ミッキー』と名付けました。今でもその名前です。」 (ミッキー・マグワイアは現在、カスタムショップの仕上げ部門で働いています)

Valley Artsは7/8サイズのギターも開発しました。これは、ギタリストのジェイ・グレイドンがストラトのスケールをギブソンスケール(フェンダー・スタンダードの25 ½インチではなく24 ¾インチ)にしたいという要望に応えたものです。Valley Artsの新しいモデルの全てに7/8サイズのオプションが用意されています。

Valley Artsの名はカスタムギターの代名詞となりましたが、マクガイア曰く「現金収入源」は小売店でした。しかし1990年のクリスマスの翌日、その現金収入源が放火犯によって燃やされてしまいました。

「ピア・ワンという輸入雑貨店のすぐ隣にあったんです。歩いていた浮浪者が火炎瓶を投げ込んで、ピアワンを燃やしてしまったんです。私たちは恐ろしい事に保険に入っていませんでした。生産を拡大している最中で、とてもお金が必要だったので、ショックでした。」

そこから復帰できないまま、マクガイアとカーネスはサンフランシスコのチェーン店に店を売り、1992年半ばには製造業のパートナーを迎えました。韓国の巨大楽器メーカーであるサミック社がValley Arts社の50%を買収し、マクガイアとカーネスは25%ずつ株を保有する事になりました。マクガイアはコンサルタントとなり、1年のうち6ヵ月は韓国に滞在することになっていた。

「最初に韓国に行ったとき、すぐにこれは大変だと思いましたよ。私には家族がいたので、まるで煉獄のようでした。まさに悪夢でした。」

マクガイアは、ギブソンのオーナーであるヘンリー・ジュスキエヴィッチ(Henry Juszkiewicz)とデイブ・ベリーマン(Dave Berryman)が1986年にギブソンを買収した時からの知り合いで、ベリーマンがギブソンのエピフォンブランドの買い付けに行っていた韓国で偶然出会いました。

ギブソン社では、カスタムショップを独立した部門に拡大する準備を進めており、その後マクガイアは同社のプロダクション・マネージャーとして1993年10月にナッシュビルに移りました。

カーネスは彼の新しいパートナーと同じような経験をしました。

「彼らは私のポジションをダウンサイジングしました。私は海外販売を担当していましたが、サミックの販売員になれと言われました。それを断ると、今度は出荷部門での仕事を勧められました。1993年半ばにはサミックを離れ、ギブソンで南カリフォルニア地域の営業担当として働きました。1996年にはオレゴン州ポートランドに移り、Akai、Jackson、Charvelの製品を扱うAMICで働きました。2002年10月にはナッシュビルに移り、ギブソンのブルーグラス部門に参加しました。」

一方その頃、偶然にもギブソンはバレーアーツの買収に動いていました。2002年12月3日、カーネスの着任から2カ月も経たないうちに、ギブソンはナッシュビルのダウンタウンにある駐車場にヘリコプターからピアノを投下し、Valley Artsの新店舗のオープンを記念しました。(このピアノ投下は、Valley Artsの目と鼻の先にあるギブソンの新店舗「ボールドウィン・ピアノ・ショーケース」のオープンも記念したものでもあり、古いピアノの時代の終わりを象徴していた。)

新しい小売店とリペアショップ(経験豊富なギブソンの保証修理担当者が常駐)は、すぐにナッシュビルに旧来のValley Artsの雰囲気をもたらしました。2003年1月にアナハイムで開催されたNAMMショーでは、最初のバレー・アーツ・ギターが展示され、ナッシュビルのセッション・ギタリストであるブレント・メイソンは、Valley Artsのカスタム楽器を注文した偉大なギタリストたちの仲間入りを果たしました。また、バレー・アーツの施設の最上階には、レストランと音楽会場が設置され、創設初期のピザ・サタデーの精神が復活することになりました。

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